致命傷は痛くない、悲しい人間は泣かない

いや、別に私が死にかけというわけではないんです。

致命傷を受けた時の感覚ってわからないですよね。なんたって致命傷なワケで、そういう人に感想を聞くわけにもいかないでしょう。で、単なる想像なんですけど、きっと痛みとかそういうレベルを超えてるんだろうと。

むかし左手の親指を食器の破片で切ったことがあって、「あっ」とおもった一瞬後、指の腹からじわーっと赤い血液がしみ出して、白い脂肪組織がはみ出してきました。

この程度の傷でさえ、痛いとかそういう感覚ではなくて、「はみ出した組織をどうやって戻すか」「目の前の洗い物と洗剤でヌルヌルした指をどう処理するか」「どの指で119をダイヤルするか」というようなことを(明確に言葉で考えたわけではなく)、恐ろしく細かく区切ったスローモーション的な時間軸の中で感じていた記憶があります。痛みを感じだしたのは傷口を麻酔なしで縫って家に帰って寝て起きた次の日から。

話はズレますが、ケネディ暗殺の瞬間、隣に座っていたジャクリーン婦人が、とっさに後部ボンネットに駆け上がり、飛び散ったJFKの脳みそをかき集めた・・・という行動がものすごく納得できるんですよ。人間ってそういう感覚のものなんだろうと。

ヘンな話、首をはねられた瞬間、離れていく自分の胴体(実際に離れていくのは頭のほうなんですが)はしっかり見えるんじゃないか。痛みっていうのは、肉体の側に痛みを感じる余裕があるからこそのぜいたくな感覚なんじゃないのかと。

「悲しくて泣く」というのも信用できない。と言うと、ものすごく冷たい人間のように思われるかもしれませんけど、実感としてやっぱり「悲しい人間は泣かない」ですよ。

身近な人が死ぬ、なんていうのは本当に悲しい出来事ですけれど、その瞬間はたぶん、呆然として、否定をして、しばらくたってからその事実を受け入れて、そのあと、ふとその人がいないことを思いだして、やっと涙が出てくるような気がする。で、その涙は「○○さんが死んでかわいそう(死そのものは想像できない)」よりも「○○さんを失った自分はなんてかわいそう(これは実感できる)」という涙だと思う。ある意味「すべての涙はうれし泣き」で、泣く余裕がある自分があってこその涙なのではないかと。

まあ、何が言いたいかというと、「わたしはこんなにも忙しい」とか「こんなにも苦労している」と声高に主張している人がいるかも知れませんけど、本当に苦しい人は黙っていて、1cmでも先に進もうとひたすら頑張っているんじゃないだろうか、とちょっと思ったわけです。なんだかんだ言ってこうやってブログ書いていられるだけの余裕は自分にはあるんだな、と。


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